所用で神田明神へ行ってきました。
境内は、桜が満開です。
桜と神田明神の風景を切り撮り、
少々の解説を交えながらご紹介いたします。
まずは、隨神門。
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隨神門
 昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念事業として新たに再建。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。各所に配した文様は伝統的なテーマをもとにしつつ、オリジナルなデザインを使用。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻を飾っている。また二層目に金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が飾られているが、この繋馬は平将門公に由来する。その後、平成10年の『平成の御造替事業』によって、鮮やかに塗替えられた。外側正面に隨神像を配し、右は豊磐間戸神、左は櫛磐間戸神を安置。この像は熊本城域内の樹齢500年の楠で、加藤清正公お手植えと伝えられているものを使用している。一木造。長崎平和祈念像制作者として有名な、北村西望(きたむら・せいぼう)氏の監修による。松下幸之助氏奉納。内側には、神馬一対を配している。
 氏子総代・遠藤達藏氏により奉献。
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社殿前
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 昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られており、昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。
伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一といった近代神社建築・都市建築を代表する建築家により設計された。小屋組を鉄骨にして荷重を軽減し、柱間を少し狭めるなどして木造建築の姿に近づけ、鉄骨鉄筋コンクリート造ということを感じさせない工夫が施されている。
 拝殿の手前を土間にし、その先を畳敷きの床にすることによって、参拝者が靴を履いたまま立って拝礼できるとともに、神職が床において祭式を行うこともできるという、現代社会に対応した構造が、昭和初期の段階で採り入れられている。 昭和20年の東京大空襲にも耐え抜いた。
 平成元年に、参拝者の増加に伴い、本殿右脇にエアコン完備の「奥御殿」を造営。さらに、平成の御造替事業(平成6年〜11年)により、全面的に塗替・修復が行われ美しくよみがえった。
 江戸開府四〇〇年記念の年・平成15年9月、国登録有形文化財に登録。
 ちなみに、現社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造・総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵の御紋が見える。

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江戸時代建立の社殿


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獅子山と桜
 江戸時代に関東三大獅子の一つとして奉献。
 獅子山に乗る石獅子は武州下野の名工石切藤兵衛(別名・油売藤兵衛)が生涯でわずか3つしか造らなかったものの中の1つと伝えられ、3つの獅子は「坂東三獅子」として有名であった。能の出し物『石橋(しゃっきょう)』にちなみ、親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、はいあがってきた子をはじめて我が子とするという内容を造形化したもの。今日では、かわいい我が子に厳しい試練を与えるたとえとして知られている。

石獅子 夫婦2頭
 千代田区指定有形民俗文化財(平成3年4月1日指定)
 本石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。
斎藤月岑・編『武江年表』には「文久2年(1862)11月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられる。
 かつては神社境内参道の両脇に岩組の石獅子として据えられていたが、関東大震災により崩壊し子獅子を紛失、親獅子2頭を保存していたが、今上天皇陛下ご即位を奉祝し子獅子を新調し新たに「獅子山」として建立された。

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千社札の碑
 200枚以上もの「千社札」が刻み込まれた碑で、平成12年に建立。千社札は、江戸時代中期より流行した「千社詣」からはじまったと言われている。参拝者が、自分の名前・屋号などを記した紙札を社寺に貼ることで御利益が得られるとされた。はじめは手書きであった。その後、浮世絵の技術が発展して木版多色刷りの札がつくられるようになると、デザイン性の高い彩り豊かな千社札が多く見られるようになった。平成12年に建立。

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神田の家(井政)【千代田区指定有形文化財】 
 この建物は、江戸時代より神田鎌倉町で材木商を営んできた遠藤家が、関東大震災後、昭和初期に建てた店舗併用住宅です。
 江戸開府の頃より、神奈川県鎌倉の材木座において公儀御用達の材木仲買を営んできた遠藤家。徳川家康の江戸城築城に際し、木材の集荷を命じられ神田へと移り住みます。当時、神田周辺に鎌倉の材木職人が集められたことから、神田鎌倉町(現在の内神田1丁目)の名が生まれました。
 遠藤家は、明治維新以降、代々の当主が継いだ井筒屋政藏の名から屋号を「井政」とし、終戦後は神田木材企業組合を設立。当代で17代を数える歴史ある材木商です(2014年現在)。
伝統技術を受け継いだ職人たちが、腕によりをかけ、銘木や良材をふんだんに用いて建てています。幸いに戦災で焼失することもなく、都心部の木造住宅としては貴重な存在として残りました。
 当初は平屋建てでしたが、昭和29年に一階の一部と二階を増築しました。また、昭和47年に神田から府中市に移築する際に、状態の良い部分を残し、さらに増築を行なっています。
2008年、府中市から神田宮本公園へ再移築するにあたり、府中時代は店として利用せず畳敷きにしていた部屋などを、かつての姿に復元しています。
 神田明神の氏子総代であり、生粋の江戸っ子だった遠藤家の亡き父の遺志を受け継ぎ、「都心の子供たちが日本文化に触れる場所にしたい」と、江戸文化・伝統行事の紹介や講座、貸室などに使われています。
 遠藤達藏氏は、エンタツさんという愛称で、我々神田明神の氏子中にはことのほか愛された氏子総代でした。

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お隣の宮本公園の桜も満開です!

(参考・記事の引用:神田神社境内図・井政HP)

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