諸 国 御 祭 禮 番 附

諸国御祭礼番付web


徳川家の産土神である山王権現の『山王祭』と、
江戸御城下町庶民の産土神の『神田祭』は
幕府の厚い保護のもと天下祭と称されました。
『山王祭』は元和元年(1615)より、
『神田祭』は元禄元年(1688)より将軍や大奥の御上覧に供することになります。

番付中央下に記される『江都天王祭礼』とは
幻の祭礼『神田三天王祭』のことであり、
実に『山王祭』より早い慶長十八年(1613)より
城内大手門まで入城がかなった由緒ある祭礼ですが、
時代が変わり、時の明治新政府によって様々な規制が加えられました。
『山王祭』『神田祭』が、ある意味幕府の権威誇示目的の官祭であったのに対し、
『神田三天王祭』は、江戸庶民の自主的な祭礼であったのも、特徴的な違いです。
氏子の範囲を見ても相当な広範囲での祭礼であったことが判りますね。

また、川柳に「本郷も兼安までは江戸のうち」というのがありますが、
往時は山王・神田・赤坂氷川の三社は
「江都」と表記され、「江戸」と区別されているのが判ります。
山王・神田はさておき、赤坂氷川神社に「江都」が冠されているのは、
紀州藩出身(藩主)の八代将軍徳川吉宗が元赤坂に藩邸を構えたおり、
産土神として崇敬したことによるものです。

神田山王


番附には、そのほか上から二段目に、深川八幡・亀戸天神・牛御前(向島牛島神社)、赤城(牛込)、白山(小石川)などの祭礼が見えますが、

深川亀戸


少々腑に落ちないのが、根津之祭が三段目に番附されていることです。

根津


根津権現祭といえば、正徳四年(1714)に一回だけですが、山王・神田祭に続き、第三の天下祭として実施され、その祭礼は「宝永祭」として後年まで長く語り継がれたほどの大規模なものでした。
この番付は、文化文政(1804~1827頃)の作と聞いていますが、約90年を経たとは言え、一度でも天下祭を催行した由緒ある祭礼が、なぜ三段目に位置されるのでしょうか。

王子

このほかにも、番附には五段目に王子権現祭(王子)、市谷八幡祭(市ヶ谷)。別枠で江戸酉之祭(酉の市)、浅草笹團子ノ天王(浅草須賀神社)、江戸芝神明祭(芝大神宮・俗称だらだら祭り)などの祭礼名が見えます。まさに往時の江戸市中は、大祭礼都市だったのですね。

天王祭


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