明治10年10月17日、当時の神田錦町三丁目(現錦町二丁目)に華族学校、つまり学習院が開業しました。同日、天皇皇后両陛下御臨席の下、盛大な開業式が催され、当時の新聞は次のように伝えています(二世後藤錦著『明治・大正 新聞記事で読む神田錦町界隈』(錦町三丁目町会発行)より)。

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学習院(華族学校)開校の地の碑(現・神田錦町二丁目9番地)
学習院創立125周年を記念して桜友会により設置されました

【明治十年十月十八日 読売新聞】
 昨日は兼て新聞に出してある華族学校の開校式にて主上と皇后宮が臨御になり、供奉の方々は三條公、岩倉公、徳大寺、万里小路、杉、吉井、鍋島、そのほかの諸君と女官は高倉典侍そのほかにて有栖川宮、東伏見宮、閑院宮、山階宮、伏見宮もおいでになり(中略)
主上より金千圓と皇后宮より金五百圓を学校へ賜り、校長立花君へは金百圓と絹一疋を賜わり、三條公、岩倉公その外の祝詞もあり、また女教員の棚橋絢、教師総代の廣瀬範治、男生徒総代の秋元興朝、そのほかの祝詞もあり学校の門へは洋風の飾りが出来、校内より楼上まで旗を掲げ紅白の提灯をも釣るし、先日も書いた通り昼は舞楽と奏楽もあり夜もことのほかに盛んなことにて賑わい、七十二になる石井勝五郎が細工の宮形も天覧になり、今日はまた皇太后宮がおいでになり、諸人へは明十九日午前九時より午後二時まで縦覧をさし許されます、委しくはまた。

【明治十年十月十八日 郵便報知新聞】
 十七日、神田錦町華族学校親臨開業式の次第を拝見するに、表門及び南北の二門何れも西洋飾り美々敷日章を掲げたり。広苑及び各室の周囲には数百の紅灯を結び列ね、正面には紅白の幕を張り、馬立場には第一方面二分署の消防夫出張し、巡査は三門へ詰め柵内外を警護す。表門右方仮屋の中には海軍の楽隊伺候せり。庭面は日本地図並び琉球地図を象(かたど)れり。廻廊には数種の盆栽を陳ね設け、玉座には百花を金瓶に雑挿せり。聖上、皇后宮には御同車にて午前九時御着輦在らせらる。此時楽隊は楽を奏し教員生徒は門外に整列して奉迎し、校長及び華族官員の方々は門内に奉迎す。校長御先導し奉りて御休息所へ入御、御茶菓等を聞召され督部長、幹事、館長、校長等に拝謁仰付られ夫より正堂へ出御。(以下略)

いかに盛大な行事だったかがわかります。
このときの絢爛たる開業式や宴席の様子は、
「錦町華族学校学習院開業式図 明治10年10月20日」や、
「東京華族学校 学習院宴会図 明治10年11月」として
錦絵にも残されています。

また、遡って明治十年七月一日の朝野新聞にはこのような記事があります(同書より)。

【明治十年七月一日 朝野新聞】
 錦町の華族学校の表門は鉄造で立派に出来上り凡そ三千圓も掛ったというが定めて外国へ誂えたのかと聞けば大違い、武州川口での製造、凡そ鉄細工の類はどんな物でも川口で出来ぬものなしと云う。その話しを魯西亜(ロシア)のミニストルが聞かれて日本にこれ程の細工の出来る事は知らなんだとて公使館の表門を欧羅巴(ヨーロッパ)へ注文したるを急にやめて川口へ頼む事に成ったと聞きました。

 この記事の「錦町の華族学校の表門」が学習院旧正門です。現在は学習院女子大学および学習院女子中等科・女子高等科の正門となっています。
 この旧正門は和洋折衷の意匠で、明治時代初期の様式と鋳造技術を伝える重要な文化財として、昭和48年(1973)6月に国の重要文化財の指定を受けました。が、老朽化が進み、明治通りの拡幅工事に伴う移設を機に国、東京都ならびに新宿区の補助を受け、平成19年(2007)12月にみごと建立当時のすばらしい姿に復元されたのです(上、yawaragi vol10「学習院旧正門の保存修理工事完了」(当時学長の永井和子先生記)より抜粋引用)。

学習院旧正門01

学習院旧正門02


 開業当時、朝野新聞が伝えたとおり、神田錦町にあった学習院旧正門が、戦禍や震災をくぐり抜け約130年の時を経て、場所を新宿区戸山に移し、今なおしっかりその役割を果たしているなんて・・・
泣かせるじゃありませんか・・・

保存修理工事に携われた各位の御努力に敬意を表します。

「生徒勉強 東亰小學校敎授雙録」(明治11年10月)の「上り」には神田錦町華族学校」と、その旧正門がしっかりと描かれています。

小学校教授双六

上がり02