千代田区内にはおもなものだけで、
ざっと50箇所ほどの稲荷神社があります
東京おいなりさんMAP千代田区編はコチラ
これは、元々武家屋敷内で崇拝されていたお稲荷さんを一般に開放したり、
屋敷がなくなった後もお稲荷さんだけが残ったりと、
この数の多さには様々な理由があるそうですが、
そのうち、神田界隈のお稲荷さん(神社含む)約30箇所を

狐絵001 120mm

地図上に点で落として(隣接しているお稲荷さんは作図都合上一部省略しています) 、

狐絵002 120mm

その点を線でつないでみると・・・・

狐絵003 120mm

ナスカの地上絵か???
なんと、巨大なキツネが現れるのです。
そのおよそ「眼」にあたる部分が、江戸総鎮守「神田明神」。
江戸城の北の鬼門を護る同神社と同じく、
北の方向(北東)に眼を光らせています。
身を挺してお城を護っているようにも見えます。

下図は「新版 神田 向う横丁の稲荷絵地図雙六(すごろく)」です。
神田界隈の絵を描かせたら秀逸の木下栄三氏の作。
神保町の「高山本店 HPはコチラ 」のみで、
756円(税込)で売ってます(発送不可、店頭販売のみ)。
向こう横丁の稲荷絵地図雙六100mm
この「雙六(すごろく)」、4年ほど前にブラタモリで紹介されたので、
ご存じの方も多いのでは?
神田にある29のお稲荷さんが温かみのある絵で描かれていて、
スゴロクとして遊べます。 中には、今現在は再開発などでなくなったり、
他社と合祀したりして、今は見ることの出来ない
お稲荷さんも含まれているので、いち資料としても貴重です。

きつね ボカシ80mm

「ポケモンGO」に飽きたら、このスゴロク片手に「神田お稲荷GO」はいかがですか?ちょっとしたお遍路さん気分、御利益(ごりやく)あるかも知れませんよ!
御参考までに、スゴロクに載っているお稲荷さんの所在地一覧表を載せておきます。お試しの際はくれぐれも交通にご注意いただき、他の方のご迷惑とならないようにお気をつけください。

一覧表
                ※所在地先頭にはすべて「千代田区」が入りますが省略しています
                ※現在は合祀などで存在しないお稲荷さんもあります
                ※一部私有地内に所在する場合もありますので御留意ください





地元錦町三丁目町会(以下当町会)の学士会館の一角に、
「新嶋(石碑ママ)襄先生生誕之地」碑(以下記念碑)があります。
(千代田区観光協会HPの「新島襄先生誕生之地」を参照ください)
新島襄は、明治六大教育家の一人に数えられている教育者で、
アメリカ合衆国からの帰国後、
同志社英学校(後の同志社大学)を興したことで知られています。

 襄は、生粋の神田ッ子であり、
幼年期から二十歳までの青春期をこの地で過ごしている、
吾が町の大先輩です。
 昭和16年9月27日(土曜日)、記念碑建立の除幕式には、
当町会の役員をはじめ子ども達約200名が参列したとの記録が
「同志社新報」(昭和16年10月20日)に残っています。
また、完成した記念碑を運ぶはずの石材店のトラックが動かず、
搬送が遅れそうだと聞いた子ども達は、
なんと大八車を用意して石材店まで押しかけ、

「町内の大先輩新島先生に負けないヨイコドモに成り度いと誓ひ
(中略)
錦町の一角は暫し感激の渦を巻き起した」
との記録まで残っているのです(同紙原文ママ)。

 新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)に
武蔵国江戸神田の安中藩板倉伊予守の江戸藩邸
(現・東京都千代田区神田錦町三丁目28番地)に生まれました。

江戸時代と現代の地図
江戸時代の安中藩江戸藩邸(上)と、現在の同じ場所(下)

 新島襄とは、実は帰国後に改名した名前で、
幼名は「新島七五三太(にいじま しめた)」といいました。
襄の誕生日は旧暦の1月14日ですが、その日は
「しめ飾り」を外す日だった為「七五三太(しめた)」と名付けられたという説、
また、よく知られるところでは、新島家にはすでに四人の娘が居り、
七五三太は四人女の子が続いた後の待望の男児だったため、
祖父の新島弁治が「しめた!」と喜んだころから、
「七五三太(しめた)」と名付けた、という話も伝わっています。

 いま、当町会の一角で、大規模な再開発事業が行われており、
本年3~5月に竣工予定です。ここには、
かつての町内のランドマークの一つだった、
博報堂の旧本館が再建されますが、同時に公園も併設されます。

テラススクウェア001
本年竣工予定の再開発「テラススクウェアビル」

20150109hakuhoudou.jpg

博報堂改築中
博報堂旧本社ビル(上)と復原工事が進む現在(下)

 この界隈としてはわりと広めな緑地ですが、
腕白だった新島七五三太はこの地で鬼ごっこのひとつもしたことでしょう。
当町会は、区や開発業者と公園の運営方法などの協議を進めておりますが、それとともに、当町会の大先輩である新島襄の幼名を冠した「錦三・七五三太公園(きんさん・しめたこうえん)という名称を申請中です。

テラススクウェア002


 また、同志社東京校友会さんが主催され、
学士会館の新島襄生誕之碑前にて、
毎年2月12日(新暦の新島襄生誕の日)に碑前祭が行われていますが、
今年はそれに加え、学士会館 201号室にて午前11時30分~12時45分より、
本井康博先生(新島襄の語り部、元同志社大学 神学部教授)の記念講演会
演題:「江戸っ子・新島襄の夢~神田に錦を飾る~」
が、開催されます。参加費は無料ですので、ご興味のある方は
是非お越しください(お申し込み順、満席次第締め切ります)。詳細はコチラ

小社お取引先である 株式会社精興社さんから、
同社の百周年記念出版物、
『活字の世紀 白井赫太郎と精興社の百年』
をいただきました。
ありがとうございました。

web 精興社


小社とのおつきあいも古く、『校注 古事記』等の教科書や
武蔵野文学』を中心に印刷していただいております。
最近では、横井孝著『源氏物語の風景』も精興社さんで印刷して頂きました。
カバー・表紙・帯から本扉も大変美しく、
また、肝心の本文も精興社さんらしいキレのある仕上がりとなっております。

web 風景



普通、企業の〇〇周年というと社史を編纂しますが、
精興社さんの場合は、百年を彩った人々にスポットを当て、
書籍というスタイルで物語風にまとめられています。

同社の青木宏至社長とは町会などでよくお会いします。
時折、「百周年記念出版物製作で大変だ」と仰っていましたが、
それがこのような形でまとめられたとは、
御関係者の御努力に敬意を表します。

あとがきによれば、著者の田澤拓也氏は小学館ご出身だそうです、
その部署(編集部)は
「一ツ橋の本社から歩いて五分ほどの錦町河岸にあるビルの四階に入居」
していて、
「(編集部に向かうのに)城砦のような精興社ビルの茶色い壁ぞいに歩いた」
とのことです。
この「錦町河岸のビル」の真裏に小社(武蔵野書院)はあります。
なので、青春時代の田澤氏は、ほぼ毎日小社の前を歩いて
一ツ橋の小学館本社と編集部を行き来されていたに違いありません。

さて、本書には、創業者 白井赫太郎(しらいかくたろう)が
いかにして同社を興し、発展隆盛させていったかという過程と、
根底に流れる活字活版印刷に対する情熱、
戦後の復興から赫太郎没後の同社の変遷が描かれる本編が、
当時の人々の証言をもとに構築され、
また、附録として、現在の精興社さんの中核をなすスタッフの座談会、
さらに、白井赫太郎と同社百年の年表で構成されています。

〈目次〉
プロローグ
第一章 赫太郎、起つ
第二章 種字彫刻師
第三章 家郷に帰る
第四章 青梅のプリンス
第五章 天寧寺の一日
第六章 百年もつ本
エピローグ
あとがき
附録一 社員座談会 精興社の百年目─その現状と未来
附録二 年表 白井赫太郎と精興社の百年

精興社さんといえば、なんといっても「精興社書体」が有名ですが、
そのへんが中心にまとめられているのが
第二章 種字彫刻師 です。本書で一番長い74頁がさかれています。

昭和初期、当時の大半の印刷所は、活字を築地活版所など外部から買っていました。
自前の活字を持つのは秀英舎(現・大日本印刷)などごく僅かでした。
赫太郎は「買った活字で印刷したのでは世間なみの印刷しかできない」と考え、「精興社独自の細めの美しいタイプ」を一から作ることを決意します。
また、当時の印刷業界では同じ活字をケースに戻し、二度三度使うのが常態でしたが、赫太郎は「活字の一回使用」を提唱します。口で言うのは簡単ですが、これは想像を絶する難事業なのです。

自前の美しい書体を作るには、腕の良い活字職人の協力が必要です。
そこで、赫太郎が白羽の矢を立てたのが 種字彫刻師の君塚樹石(きみづかじゅせき)でした。
樹石は明治33年生まれ、お祭りの前後一ヶ月は一切仕事をしないという生粋の神田ッ子です。
文久三年生まれの種字職人、石渡栄太郎のもとで修行し、めきめきと腕を上げていきました。
その回想に
「お前は、三〇過ぎたらもうお前の右に出る者はないだろうって親方がそう言っていました。あたしはまたうぬぼれが強くて、きかない気だったから、なあに、そのときは二〇ちょっとだったけれども、いまだってだれにも負けやしねえ、こう思っていましたよ。」(『印刷界』一九六六年三月号)
とあります。
その後、君塚樹石と白井赫太郎の二人三脚の、気の遠くなるような努力で、世に名高い「精興社書体」が誕生します。そして、当時としては大変まれな、「読みやすく、細めで、しかも力強い」独自の活字「精興社書体」で、これまた「活字の一回使用」を実行し、印刷業界や出版界に精興社の名が轟くことになるのです。
この精興社書体と誠実な仕事が評価され、岩波書店は岩波文庫や『漱石全集』をはじめとする、仕事のほとんどを精興社に発注することになり、「岩波といえば精興社、精興社といえば岩波」とまで云われたと言います。

社名
漱石門下四天王のひとり、安倍能成(哲学者・教育者)の手になる社名プレート
安倍は岩波茂雄との交流が深かった

赫太郎の考え方の一端を垣間見ることのできる、
次のようなエピソードが紹介されています(本書226頁より)、

「 地元で白井京染店を経営していた弟の忠治郎は、八〇代半ばの兄赫太郎のおともをして浅草寺に出かけたときの出来事をこう記す。

 中央線で立川から腰を掛け、途中まで来ると、前に若い人が立っている。兄は立ちあがり、「さあ、代わりましょう」というので、若者は兄が降りるのかと思って座った。「若い者はこれから職場へ行って働くのだから代わってあげろ」といわれて私も驚いた。何にしても八〇歳以上の老人でもあるので、周囲の人も変な気持ちでこの光景を見ていたと思う。このような気持ちの兄であった。(白井忠次郎「兄の思い出」)」


第二章を中心に簡単にご紹介しましたが、本書は、単なる一印刷会社の歴史ではなく、日本に於ける活版印刷史の重要な資料ともなりうるでしょう。
残念ながら市場で買い求めることはできませんが、是非一般流通させて欲しいと思います。

『活字の世紀 白井赫太郎と精興社の百年』
平成25年4月8日 第1刷発行
四六判上製カバー装・408頁

著 者:田澤拓也(たざわ たくや)
発行者:青木宏至
発行所:精興社ブックサービス
印 刷:精興社
製 本:牧製本印刷
定 価:非売品

〈著者紹介〉
田澤拓也(たざわ たくや)
一九五二年(昭和二七年)青森県生まれ。早稲田大学法学部・第一文学部卒業。出版社勤務をへて作家に。『空と山のあいだ』(第八回開高健賞)『ムスリム・ニッポン』(第四回21世紀国際ノンフィクション大賞優秀賞)『虚人 寺山修司伝』『百名山の人 深田久弥伝』『無用の達人 山崎方代』など数多くのノンフィクションや人物評伝を著している。近年は『タッチアップ』『外ヶ浜の男』などの小説や、『江戸の名所』『大江戸快人怪人録』など江戸時代に関する著作も次々刊行している。
(同書奥付より)
明治10年10月17日、当時の神田錦町三丁目(現錦町二丁目)に華族学校、つまり学習院が開業しました。同日、天皇皇后両陛下御臨席の下、盛大な開業式が催され、当時の新聞は次のように伝えています(二世後藤錦著『明治・大正 新聞記事で読む神田錦町界隈』(錦町三丁目町会発行)より)。

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学習院(華族学校)開校の地の碑(現・神田錦町二丁目9番地)
学習院創立125周年を記念して桜友会により設置されました

【明治十年十月十八日 読売新聞】
 昨日は兼て新聞に出してある華族学校の開校式にて主上と皇后宮が臨御になり、供奉の方々は三條公、岩倉公、徳大寺、万里小路、杉、吉井、鍋島、そのほかの諸君と女官は高倉典侍そのほかにて有栖川宮、東伏見宮、閑院宮、山階宮、伏見宮もおいでになり(中略)
主上より金千圓と皇后宮より金五百圓を学校へ賜り、校長立花君へは金百圓と絹一疋を賜わり、三條公、岩倉公その外の祝詞もあり、また女教員の棚橋絢、教師総代の廣瀬範治、男生徒総代の秋元興朝、そのほかの祝詞もあり学校の門へは洋風の飾りが出来、校内より楼上まで旗を掲げ紅白の提灯をも釣るし、先日も書いた通り昼は舞楽と奏楽もあり夜もことのほかに盛んなことにて賑わい、七十二になる石井勝五郎が細工の宮形も天覧になり、今日はまた皇太后宮がおいでになり、諸人へは明十九日午前九時より午後二時まで縦覧をさし許されます、委しくはまた。

【明治十年十月十八日 郵便報知新聞】
 十七日、神田錦町華族学校親臨開業式の次第を拝見するに、表門及び南北の二門何れも西洋飾り美々敷日章を掲げたり。広苑及び各室の周囲には数百の紅灯を結び列ね、正面には紅白の幕を張り、馬立場には第一方面二分署の消防夫出張し、巡査は三門へ詰め柵内外を警護す。表門右方仮屋の中には海軍の楽隊伺候せり。庭面は日本地図並び琉球地図を象(かたど)れり。廻廊には数種の盆栽を陳ね設け、玉座には百花を金瓶に雑挿せり。聖上、皇后宮には御同車にて午前九時御着輦在らせらる。此時楽隊は楽を奏し教員生徒は門外に整列して奉迎し、校長及び華族官員の方々は門内に奉迎す。校長御先導し奉りて御休息所へ入御、御茶菓等を聞召され督部長、幹事、館長、校長等に拝謁仰付られ夫より正堂へ出御。(以下略)

いかに盛大な行事だったかがわかります。
このときの絢爛たる開業式や宴席の様子は、
「錦町華族学校学習院開業式図 明治10年10月20日」や、
「東京華族学校 学習院宴会図 明治10年11月」として
錦絵にも残されています。

また、遡って明治十年七月一日の朝野新聞にはこのような記事があります(同書より)。

【明治十年七月一日 朝野新聞】
 錦町の華族学校の表門は鉄造で立派に出来上り凡そ三千圓も掛ったというが定めて外国へ誂えたのかと聞けば大違い、武州川口での製造、凡そ鉄細工の類はどんな物でも川口で出来ぬものなしと云う。その話しを魯西亜(ロシア)のミニストルが聞かれて日本にこれ程の細工の出来る事は知らなんだとて公使館の表門を欧羅巴(ヨーロッパ)へ注文したるを急にやめて川口へ頼む事に成ったと聞きました。

 この記事の「錦町の華族学校の表門」が学習院旧正門です。現在は学習院女子大学および学習院女子中等科・女子高等科の正門となっています。
 この旧正門は和洋折衷の意匠で、明治時代初期の様式と鋳造技術を伝える重要な文化財として、昭和48年(1973)6月に国の重要文化財の指定を受けました。が、老朽化が進み、明治通りの拡幅工事に伴う移設を機に国、東京都ならびに新宿区の補助を受け、平成19年(2007)12月にみごと建立当時のすばらしい姿に復元されたのです(上、yawaragi vol10「学習院旧正門の保存修理工事完了」(当時学長の永井和子先生記)より抜粋引用)。

学習院旧正門01

学習院旧正門02


 開業当時、朝野新聞が伝えたとおり、神田錦町にあった学習院旧正門が、戦禍や震災をくぐり抜け約130年の時を経て、場所を新宿区戸山に移し、今なおしっかりその役割を果たしているなんて・・・
泣かせるじゃありませんか・・・

保存修理工事に携われた各位の御努力に敬意を表します。

「生徒勉強 東亰小學校敎授雙録」(明治11年10月)の「上り」には神田錦町華族学校」と、その旧正門がしっかりと描かれています。

小学校教授双六

上がり02